3.住吉村
(1)住吉村を調べるきっかけ
こちらに引っ越してきて、なんかここはちょっと違う場所だなと思ったんです。ほんで町の案内所に行って詳しい事知ってる人にいろんなこと教えてもろうた。その後図書館で「住吉村誌」(注釈)見たんですよ。
ものすごい力量でびっくりしたんです。この街はとんでもない所やな思って。それから調べが始まったのね。これ全部わかったのはこの 8 年間なんです。 分かるたびにずっと祈り倒してきたんよ。
(2)住吉富豪村
東灘ってものすごい良い土地ですよ。
六甲山は昔「むこやま」って言ってた。六甲山の半分からこっちは全部住吉村の土地だった。
六甲山の氣が住吉川から全部ここに流れてきてるので、日本を代表するような企業の創設者が御影に全部集まったんですね。
この資料は乾邸見学の時もらったものです。
この辺りは明治から戦前くらいまで住吉富豪村と言われてたところなんです。(注釈)
この地図にあるように、日立の創業者の久原さん(注釈)、乾邸(注釈)、白鶴酒造の嘉納治五郎さん、伊藤忠、弘世さん(日本生命)、朝日新聞(村山)、野村證券の野村さんもこっから出てるし、平尾八三郎さんも有名ですからね。日商岩井の岩井勝次郎のお屋敷は先生とこの角にあったんですね。武田さんは武田薬品。白鶴美術館の横に徳本上人さんが住んでたんですよ。徳本さんの徳を讃えて嘉納さんが美術館を作っとんです。まだ他にもいっぱい、ファミリアを作った坂東さん(注釈)の邸宅もあった。
なんせ日本の富豪がここに結集してたんです。
①住友
住友の友純(ともいと)さんって大正14年に住吉村に来られた方がいたんです。(注釈) これは京都の公家さんで立命館大学の創始者の西園寺公望(きんもち)(注釈)の弟です。
友純さんは住友の若さんと学習院で同級生だったんですが若さんが20歳頃に変死したんです。で若さんの妹の所へ婿に行ったんですわ。その後住吉村に来て住んだんやけど、日本一の大金持ちなんです。住友は江戸時代、心斎橋で銅を作って輸出して儲けたんです。(注釈)
当時地球上の4割の銅線は住友製だったんです。(注釈) オランダ船が日本に来たのは住友の銅の延べ棒が欲しかったからなんです。(注釈)
世界中の貨幣の4割以上が住友製でものすごい力だったの。
だけど明治になった時に政府に財産取られかけたんですけど、番頭が賢かってそれを防いだんですよ。(注釈)
住友友純さんがここに屋敷作って今の住吉学園の南側全部が住まいだった。全部六甲山の神籬岩で囲まれてた。
住友の番頭さんの土地だったところが今の住吉中学になってる。ここは氣が降りてきてんのわかってるから学校になったのね。
昭和 13 年に風水害が起こったんです。住友さんは12 年に京都の実家に帰ってたんですよ。綺麗に全部財産持っていったから、おかげで泉屋博古館って美術館ができた。(注釈)
阪急の線路あたり住友の上で決壊したから、ここ置いとったら全部無駄になるとこだった。
白鶴美術館は全然大丈夫や。
このお金持ち達はその後芦屋に移ったんで、今の芦屋の豪邸の人達は元々皆、御影の人だったんです。
今ももちろん六甲山から氣は降りてきてるけど、誰もそのこと知らない。
若宮八幡宮はね、明治時代に神仏分離問題が起きたんですよ。その時に村人全部で守ってここだけ未だ残ってるんです。神様の氣ずーっと流れてきてるから絶対に移せんのですね。
楽天の三木谷もここの氣受けてて、八幡神社の参道の下におばあちゃんの家があって、お父さんは神戸大学の経済の名誉教授。
土地のエネルギーまだ残ってるんですよ。
嘉納さんも御影公会堂つくったでしょ。ちゃんとみんなの為にきちっとされてるんですね。皆、公の精神があったんです。絶対に独り占めではない。
ーそれに引き換え、今の大企業はもう公の精神忘れちゃってますね。だって今、上は全部ユダヤ人でしょ
住友家もSMBCになってから、もう本家と全然離れてしまったんです。
続く