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S翁の教え(6)

(6)前世記憶

ー 翁はいつからお坊さんやってるんですか?

前にお坊さんやってて修行道場失敗してん。

ー え??

男の坊さんやった。

ー え?男の坊さん???…

その前の前の時も男の坊さんで、そのまた前は女の坊さんやった。
この2000年位だいたいわかる。

ー えーーー!!!!

前に友達からインド行きへんか言われたけど、 インドはちゃうな思うて。そんだらある人からイスラエル言われたら、ビシッときて。で、イスラエル行ったんですよ。
僕がイスラエルに入った時にはまだ東西ドイツの時代で、僕らが行った2年後くらいに東西の壁が崩れた。
僕らが入る数日前に建国以来の大雨が降ったんです。
イスラエル国建国以来や言うて、砂漠に水が流れて、ポピーがズワーッと、いっぺんに芽生えたんよね。全部お花畑だったの。びっくりしました。ほんまに綺麗で。ちょうど芽生えた時に僕ら入ったんよ。

ーすごーい、呼ばれてたんだ!

もう幸せやったね。めっちゃめちゃ幸せやったね。
最初にイスラエル国に入った時になんか、ものすごく懐かしくてね。なんでこんなに懐かしいんやろ思ってた。

その時ツアーで行ったんです。ケーブルカーでマサダの砦に登ったんです。で、ツアーの皆は向こうに行っとるのに、なんか知らん、逆の方向に体が自然に呼ばれてって、行ったら崖っぷちに小さな降りてく道があるねん。そこをどんどん勝手に降りていったんよ。ほんだら、そこがヘロデ王の宮殿の跡で、ボロのフレスコ画が残ってたんです。フレスコ画言うて漆喰に描いた絵です。もう感動しましたね。懐かしいどころやないんやねえ。ほんで更に進んで、かつてシナゴーグ(注釈:ユダヤ教の教会)があったところに入ったら、もう涙とまらんようになってもうた。もう夢中でずっとそこら辺を歩いたんよ。

そしたら自分がそこ走り回っとった光景がばーっと出てきてね。

ー え??

2000年ほど前にユダヤ人のゼーロータイ(注釈1)っていうのが旗揚げしてローマに対して独立戦争したんです。で、マサダの砦というのは、最後の決戦をした場所だったんです。

そこでローマ軍と戦争やってた情景をバーっと思い出した。その時の戦争に僕は参加してたんです。ユダヤ人戦士でそこ走り回ってたんですよ。もうびっくりしましたね。

山の上のマサダの砦にはユダヤ人1000人ほどが逃げてたんです(注釈1)。それをローマ軍が追ってきたんやけど崖に登ってこれず、2年間攻められなかったんです。でもいよいよローマ軍が攻め入ってくるという直前で、そこにいた1000人が全員自決したんです。自殺じゃないんです。自殺と自決は違うんです。自決は意識がはっきりしてる。

ー切腹と同じですね。

そうです。切腹も自決です。
その時、1000人と一緒に自決した自分の姿も出てきた。

ーなんと!…

ここでユダヤ人はローマに負けて、それから全世界中に離散していったんです。

その後ツアーの皆のとこに戻ったら、僕見て友達がニコニコ笑うとんね。なんでなのか分からんで後で聞いたら、鳩がね、僕の右の肩に止まってじっとおったんやて。皆見てびっくりしとったでって、僕は全然気がつかんかった。

ーおかえりって言ってたのかも…

その後イタリアのアッシジで女の坊さんで生まれてきてて。それもアッシジに行った時に、みんな思い出してしもうた。
教会の階段上がる前から、次こんな窓あるわ、ってみんな見る前から分かった。
ガイドさんがセントキアラの庭ですよ、言うてね、窓覗いたら、ほんまの畳1枚か2枚の庭なの。 みんな覚えてた。見たことある、というよりもなんちゅうか、もう染み込んでるのよね。何回も見てたんやろうねえ。 もう懐かしさで涙が出た。

続く
(注釈1):
イエス・キリスト時代のユダヤ人の結社。熱心党、ゼロテ党と訳される。深い宗教的確信のもとに、イスラエルの神ヤーウェの神聖政治を妨げる者に対しては、同胞であれ、死を賭(と)しても戦うという狂信的情熱をもっていた。ローマに対する暴動を指揮したガラリアのユダが、紀元6年ごろ創設した。イエスの弟子に熱心党のシモンがいたが、イエスを裏切ったイスカリオテ(カリオテ出身)のユダも、もしイスカリオテの名がテラン語の「シカリー」sicarii(刺客)によるとの説が正しければ、熱心党の1人である。70年エルサレム陥落後、ユダヤの残兵はマサダの要塞にこもり、なお3年間ローマへの抵抗を続け、全員が自刃して果てたが、彼らは熱心党のなかでももっとも 過激なシカリー派に属していた。

(注釈2):
66 年、ローマ帝国に対してユダヤ人が決起しユダヤ戦争が勃発した。70年、ティトゥスの指揮するローマ軍団によってユダヤ側の本拠地であったエルサレムが陥落(エルサレム攻囲戦)。エル アザル・ベン・ヤイルに率いられた熱心党員を中心としたユダヤ人集団 967 人が 包囲を逃れ、マサダに立てこもった。籠城側は兵士のみではなく、女性や子供も含まれていた。
1万5千のローマ軍団が周囲を包囲したが、 さすがのローマ軍も、攻撃を寄せ付けないマサダの峻厳な地形に攻めあぐねる。やがてローマ軍はユダヤの捕虜と奴隷を大量動員して土を運び、山の西側の崖をそっくり埋めて突 入口の建設を開始する。ユダヤ側は執拗に防戦したが、二年がかりで山腹は着実に埋められ、やがて陥落は目前となった。敗北が確実となったある日、指導者たちは集まって今後の方針を協議した。抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが当時 の慣習であったためみんなで自殺することにした。
73年5月2日、ユダヤ人が集団自殺したことをまだ知らないローマ軍部隊は完成した侵入路を通り、城内に突入する。ローマ兵は内部の状況を把握していなかったため、死にもの狂いの抵抗を予想していたが、当然防戦する者は 1 人もいなかった。ユダヤ戦記には穴に隠れていた2人の女と5人の子供だけが生きのびたと書かれている。 マサダ陥落によってユダヤ戦争は一旦は終結した。 陥落後のマサダはローマ軍により徹底破壊され、長い間その所在が分からなくなっていた が、1838 年にドイツ人考古学者によって所在が確認された。 マサダは現代ユダヤ人にとり、民族の聖地と なっている。イスラエル国防軍将校団の入隊宣誓式はマサダで行われ、士官学校卒業生は 山頂で「マサダは二度と陥落せず」と唱和 し、民族滅亡の悲劇を再び繰り返さないことを誓う。

(注釈3):アッシジのキアラ(イタリア語: Santa Chiara d’Assisi, 1194年7月16日 – 1253年8月11日)あるいはアッシジのクララは、イタリアの聖人。ローマ・ カトリック、聖公会、ルーテル教会で崇敬される。英語名のクレア(Clare)、またはクララ(Clara)の名前でも知られているが、ここでは出生地主義に従いキアラとする。聖フランチェスコに最初に帰 依した者の一人。フランチェスコ会の女子修道会クララ会(キアラ会とも)創始者。

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